ある時代に普通の人々がごく当たり前だと信じていたこと、それが後の時代になって、なぜ人々がこんなばかげた考えを信じていたのか今では想像もできない、ということがよくあるものだ。
− ジョン・スチュアート‥
ハンス・リユーシュ
序 章
誤りをいつまでも正そうとしない科学者の強迫観念について
過去一世紀半もの間、著名な科学者、医師、生理学者および医療研究者はもちろん、多くの尊敬すべき市民たちが、医学知識を得る手段としての動物実験が、いかに無益であり、また、その動物実験によって得られた誤った考え方が、いかに人間の健� ��に悪影響を及ばすかを、繰り返し訴えてきた。にもかかわらず、政治、公衆衛生、教育、メディアそして動物愛護の各分野で「重きをなす人々」、それから当然のように、これらの人々に影響されている一般の人々は、動物実験を断念することは不可能である、と思い続けてきた。
これは一体どう説明したらよいのだろうか。この現象には多くの理由がある。以下、それを様々な角度から検討してみよう。
ーーーーーーーーーーー以上引用終わりーーーーーーーーーーーーーーーーー
「なぜ、こんな馬鹿げたことを長い間信じてきたんだろう。」
思わずこんな言葉を吐くというような事があるというのがこの世の常なのかも知れませんが、それが、「医学」とか「医療」の世界においてこのようなことが発見されたと きに、人々は「驚き」という単純な精神的反応だけでは収まりがつかない複雑な心境になるのではないでしょうか。
ある者は唖然としてしまい、思考を停止し、言葉も失い、ある者は腹の底から怒りがこみ上げてしまうとかで、現代の医学関係者にその矛先を向けたり、ある者は、なぜこの様に吾々人類が長い間に簡単に騙されて続けて来てしまったのかを深く知ろうとする者・・・・・
そんな衝撃を十分に与えてくれるのが本書の内容であると思います。
それも素人の証言などでなく、それがすべて医学の専門家たちの語った言葉であり、今より相当前の年代であったということです。
しかも、その証言が多数ありながらも医療の改革はまったくと言ってよいほど「成されていなかった」という事実なのです。
この� ��は、「人は真実からというよりも、他の理由で動いている」と分かるものでした。それで「医療の犯罪」という題名が納得できました。もちろん、それが「医師の犯罪」と勘違いしてはいけないのです。
特定の医師たちだけにその全責任を負わせる事は間違いです。この医療の関わって来た人は広い範囲からいうと、歴史的時間とともにみると「全人類」が加担者です。
せまい意味で考えると特定の団体、職業にされ、彼らのみ「犯罪者」とされて終わりますが、これでは医療の真の改革は出来ないと思います。
ひとりひとりが医学という学問を見直し、医療という実践の場において正しく行なう環境を創る道に参加すること以外、健康世界は出来上がらないものと思います。
その基礎となる動物実験の誤りを正しく認識� ��るためにこの本を推薦します。
「医療の犯罪」〜「千人の医師の証言」として、世界の医師の証言を集めたものを読むにつれて、いかに吾々が誤った情報を受け、それを信じて来たのかを悟らされることでしょう。
昔から西洋、東洋において、医学の治療の基本は何と言っても薬剤です。現代ではそれに加えられた補助として、各種の手術や放射線などがあります。
あらゆる治療の基礎研究となっている、ものが「動物実験」であることから、この「動物実験」そのものが人間にとって当てはまらない、言ってみれば「非科学的実験によるものだ」という事実を知ったとき、先に書いたような様々な反応が起こると予想したものです。
ようするに、動物実験の研究結果が人間に適用されるものでは無いということです。これによって、「動物実験によって安全性が確かめられている」ので許可されている多くの「薬剤」そのものが実に怪しくもあり、さらに危険なものとして認識されるのではないでしょうか。
私は今から二十年以上前に、「薬は毒だ」「薬が病気を造り出す」ということを知らされて、医学そのものが危険な病気製造理論になっているのでは?と思い、いてもたってもいられないほどの気持ちがわいたものです。
しかし、そんなことを言えば、ほとんどの人が笑って無視するか、「それはそうだけど、国が認可したものだし、規定通り使えば安全なはずだ」という様に、どうしても受け入れられない説でした。そればかりか、どうも変な宗教を信じてしまって頭がおかしくなってしまったようだ」くらいに思われていました。それから二十年以上も経って、いまだに同じような見方をしていられる人がとても多いと感じています。
彼らはほとんど医学を信じ切っています。だから「薬が毒であって、毒で病気がなおるのではない、毒が病気を造り出すのだ」という説を説いてもほとんど信じられないので、かえって「迷信邪教の信仰」から来る「非科学的な説」だと批判されてしまうのでした。
そんな彼らはいつも「医学は科学だ」という言葉を最後に放つ切り札なのですが、その「科学」と言われる医学の基本が動物実験から成り立っていることを知っているのでしょうか。
そして、この動物実験を「科学」の切り札としている「医学信仰者」たちの思惑を根底から砕いてしまう真実をこの本によって明らかにしてくれたのです。
しかも、そ の証言者こそ「科学」側にある「医学関係者側」の医師たちなのです。
二,三年前でしょうか、私はこの本の抜粋をまとめようと思っていたのですが、どうも気が乗らない状態で、しばらく放って置いたのですが、今回思い出しまして、せっかくだから引用するという形でまとめてみることにしました。
「もういまさら遅い」という感じもするのですが、もしかしたら役に立つこともあるかもしれないと思いまして、残しておくことで私の自己満足の形です。
(遅いというのは、現実としてそんな論をしているほど悠長な時期では無くなって来ているという意味です。)
なお、証言者の医師名、発表論文、時期などが詳しく本には記されていますが、それは本を直接読まれることで確かめられますので、ここでは「証言� �容」だけを抜粋して引用しています。
どこの国の医師が何時どこに発表したかは間違いない事実として認められ、さらにこれらが医師の証言として認められるなら、後はその「証言内容」のみで判断出来るものですから、十分な資料となるものでしょう。
以下は序文から順次ひろって行くことにします。
なぜ誤った情報がそのまま永らえて伝え続けられたのかを解説しています。世界の歴史上、誤った情報が訂正されずに真実として伝えられる背景には時の権力者とのつながり、そしてそれから利益を生む経済的な背景などの理由が挙げられます。
この様なことは未だに世界のどこかで行なわれている現実ですが、ただ、そんな国家は独裁政治を行なっているところだろうと思うと、それも勘違いのようです。
ーー� �ーーーーーー以下本文よりーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(中略)
今日、そんなことはただ全体主義国家でのみ起こりうると信じている人々がいるとしたら、それは、たいへんな誤解である。この種のことは、我々のいわゆる自由民主諸国のさまざまな分野でいつでも起こっていることなのである。ただ違いがあるとすれば、異議申立て者に対する刑罰が死刑でないだけであり、経済的あるいはその他の制裁によって、同じように彼らの生存が脅かされていることには変わりはない。
アンダーソンの最愛のテストの目的は何ですか
ガリレイの理論は教会の反対にあったばかりではない。当時、「自然哲学者」と呼ばれた、同僚の科学者たちによっても非難されたのである。多くの人々に半ば半神≠フように崇められ、賞賛されている今日の多くの科学者たちと同様に、彼らは自らが間違っていたと認めるぐらいならむしろ死を選ぶか、その誤りをさらに押し広めるかのどちらかを選んだであろう。
正確にこれと同じようなことが、今日、動物実験の領域にたずさわる多くの者の間に起きている。人間の本性は変わらないものだ。だからこそ新しい考え方が受け入れられるまでには、通常、すべての師のみならず、その弟子たちの死をも待たねばならないほどの長い時間� �要してしまうのだ。
人間の腰骨は雄牛のそれのようにフレアー状(裾広がり)であるとするガレノスの説をヴュサリウスが訂正すると、彼の同僚の大学教師達は、自分たちが一千年もの間、間違いを永統させてきたことを認めたがらず、ガレノスの時代以後、人間の腰骨は、トガ(ゆるやかな上衣)の代わりにズボンをはくようになったため、その形を変えたのに違いない、と説明した。真実は誰の目にも明白であったにもかかわらず、ガレノス式の誤りはその後二百年間も学問の府に生き延び、またもや、学者の無知ほど頑固なものはない、ことを証明してみせたのである。これがまさに、教育や健康管理に携わる人々を、人間の生物学について何かを学ぶ要因として動物を使用することは、公認科学の大きな誤りのさら� ��るものだ、ということを認めさせるのが困難な理由の一つである。
(中略)
医学的側面から
これについては、言葉を費やすまでもないだろう。本書は、生体解剖の科学的あるいは医学的実効性をはっきりと、もしくは間接的に否定している医師や研究者の名前および意見を集めたものである。
この間題については、少なくとも、きまざまな議論がある。しかし、動物をモデルにした実験を有効だとする人々がすべて、たんに病的な自己満足や金銭的利益のためにそう主張しているのなら、もはや議論の余地はなく、おおいに話は分かりやすい。いくつか例をあげてみよう。
近代外科の大家、ローソン・ティトは次のように言っている。
「科学的研究法としての生体解剖の立場は、無限にある自� �の秘密解明の方法の中で孤立しており、一見したところ、強い反対にさらされている。誰も天文学者、化学者、電気技師あるいは地質学者の研究、作業方法に異議を唱える者はいない。彼らの成果の相対的確かさは他の分野の研究者もおおいに賞賛している。しかしながら、生きている動物をもとに研究している生理学者に対しては、二つの強い異論がある。一つは、大衆に強く、広く浸透している感情を逆なでしていること、もう一つは、彼らの並べる成果がひじょうに不確実で、しばしばたいへんな矛盾に満ちていることである。」
ーーーーーーーーーーー以上引用終わりーーーーーーーーーーーーーーーーー
医学者たちの間において異論があるというのですが、手術の基本となる生体解剖や薬剤の安全性と効果に基礎とな� ��動物実験そのものが専門家の間に対立する意見があると言うことです。
しかもそれが純粋に学問上などの無条件化でなく、対立の条件に経済とかの利益関係が重なっているのでは、純粋の科学としての対立ではないようです。
むしろ、純粋に科学的根拠で論じる側の方が経済的には不利になる訳ですから、動物実験否定論の側の人の方が公正になるものと思われます。
反して、動物実験肯定派の学者はどうしても経済的にも利益がある訳ですし、しかも体制側にある者ですからいささか公正という文字が汚れていそうです。
本書の中の証言は動物実験否定派の証言を集めてあります。
というのは肯定派は大多数の学者であるから、あえて集める必要もなく、それが今の医学の主流派だからです。そして「寄らば大樹の陰� ��ならぬ「寄らば体制側」に属する方が自身の身を守るためには都合のよい立場となる訳です。
対する動物実験否定派こそ、体制から異端者として葬られる危険もあり得るわけですから、勇気ある医師たちと言えるでしょう。
吾々大衆は、ほとんど多数意見の流す情報をそのまま鵜呑みにしています。これは特に独裁国家に限らず、民主主義国家でも当たり前に行なわれている普通のことでしょう。
だから、大衆のほとんどは動物実験が必要であり、しかも科学的な根拠があるのだと固く信じていることでしょう。
認可されてくる医薬品が効果ありしかも安全だという信仰はこの辺にありそうです。
「動物実験を繰り返して確かめられたものだから、人間にも安心して使える」と思うのは一般大衆だけではないでしょ� ��。
おそらく大半の医師たちも同様な考えを持って処方しているものと信じます。
もし、そうでないとしたらそれは故意に犯罪を犯すことと同様になるからです。
ーーーーーーーーー以下本文よりーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
一九八八年、シカゴ大学のロバート・S・メンデルスゾン教授は、
「医師たちは近代医学を厳密さを欠いた科学″と呼ぶ傾向があるが、より正確に言えば、近代医学には実質的なところ、いかなる科学も存在しない、と言うべきである。医師たちのすることはほとんどすべてが憶測、推量、臨床的印象、気まぐれ、願望、希望、個人的意見もしくは信仰に基づいている。約言すれば、彼らのすることは、堅固な科学的証拠を欠いた何ものかに基礎を置いている。かく て医学はまったく科学ではなく、信仰の体系である。
信仰はすべての宗教がもつものであり、それには「近代医学という宗教」も含まれるのである。」
ーーーーーーーーーーー以上引用終わりーーーーーーーーーーーーーーーーー
ここがおもしろいところです。
つまり「医学は科学であり、科学が進歩した結果が医学の進歩につながっている」という思いをハナから壊してくれる証言なのですから。
医学と科学の方程式
1 医学=科学 医学は科学である
2 医学≠科学 医学は科学ではない
ほとんどの人が(医師であろうが、一般大衆であろうが)方程式1を真実としているでしょう。
だから、方程式2を唱えようものなら、頭がおかしいと勘ぐられるのがオチでした。
私が二十年前 も今もあまり変わっていないと感じるのはこの方程式の認識1と2では正反対だからです。
ーーーーーーーーー以下本文よりーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
書的側面から
生体解剖に反対する著名な医師はいつの時代にもいたにもかかわらず、なぜ生体解剖は有益であるという欺瞞が生き延びてきたのだろうか。事情を知らない人々は、きっとそう問うだろう。
今世紀前半の英国で最も著名な医学博士の一人、ウォルター・ハドゥェンは、
医師は学生時代に、ものを考えるということを教えられない。期待されているのは、他人の考えと同化し、権威に従うことである。医師としての全生涯を通じて、彼はその時代の最新の医学的流行を受け入れなければ、威信も地位も失うこと� �なる。公的機関への任命、切望する昇進は、彼が医学界の広くいきわたっている慣行を踏襲しなければ手に入れられない。彼の資格に非難の余地がなく、尊敬をかち得るだけの資質をもっていたとしても、容認されたドグマの狭い圏内で考、え、行動する用意がなければ、多かれ少なかれ、孤立した道を歩く覚悟を引き受けなければならない。
今日の一般的な出版物は、おおむね、医学界の正統的権威者たちによって支配されている。
どうすればExcelで数式をロックしない
うじゃうじゃいる医事記者≠ヘ、最新流行の医学文献から示唆を得、編集長の後ろ高く控えている謎めいた権力の好みを満足させるような記事だけを提供するよう期待されている。非正序統的な見解は、まれな例外を除いて掲載を拒否される。
医学界の正統派が一般の人々にふるう支配力の強固さはたいへんなものである。そこで、たとえば健康問題に関する発言はそれがい 詔かに重要で興味あることであっても、もし衛生省の役人たちの賛同や裁可を得ていなければ、ラジオ放送すら許されないのである。
時たま、新しい医学上の発見〃が大騒ぎされることがある。大衆の目は大手新聞の威厳ありげな見出しのとりことなる。各紙誌に一� �に同じような見出しがおどり、各放送局も同じ内容のニュースを知らせるとあっては、出来事全体が仕組まれたものではないかと疑う余地すらない。
新発見の中身は例えば、新しいがん細菌の発見であったり、新血清、ワクチン、化学予防接種の発見等である。また、旧来の疾病に関する装い新たな理論、ハエ、ノミ、シラミ、ゴキブリ、犬、猫、オウム、ネズミ、ヤギ等に対する新たな挑戦といったものである。
しかし、よく考えてみると、これらの発見〃にはまったく独創性が欠けていることが、やがて必ず判明するのである。
これらの華々しい発表の中には、いかなる真の発見もなく、いかなる独創的な医学的概念も広められなかった。医学に対する恒久的な寄与も、医学の進歩も達成されなかった。一般の新開� �医学関係者のセンセーショナリズムを宣伝すること以外、ほとんど何の役にも立ってこなかった。
ーーーーーーーーーーー以上引用終わりーーーーーーーーーーーーーーーーー
これを読むと今までの疑問がすべて解けるような気がします。
大衆が信じている医学情報がいわゆる「大本営発表」的なゆがめられている情報であり、しかもそれを流すマスコミ自体がもう時の権力側の手足となって働いているということ。
これはこの日本でも戦時中に行なわれていたことでしょうが、戦後はそんな独裁的な軍も無くなったし、今は公正な記事を流しているのがマスコミだと思っているかも知れませんが、実体はどうやら上記の引用とおりの世界のようです。
実際に医学の反する情報や意見を新聞やテレビで採り上げてく� �るか?というと、おそらく制限されることでしょう。
たとえば「薬は毒だ。だから薬が病気を造り出す」などという異端説を広告しようとするなら、拒否されることでしょう。
それは大きな権力と金力を持っているのが医薬や医療関係であり、新聞の広告の大スポンサーでもあり、経営にも資金的に裏で入り込んでいるかも知れません。
こんなことを考える私の方こそ思い過ごしだと反発されるかも知れませんが、つい最近はどうか分かりませんが過去はずっとそうだったと聞いています。(どなたか試してみるとよいです)
ちょっと繰り返しますが、医師たちがなぜ医学の矛盾に気が付かないかというと、
ーーーーーーーーー以下本文よりーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
医師は学生時代に、もの を考えるということを教えられない。期待されているのは、他人の考えと同化し、権威に従うことである。医師としての全生涯を通じて、彼はその時代の最新の医学的流行を受け入れなければ、威信も地位も失うことになる。公的機関への任命、切望する昇進は、彼が医学界の広くいきわたっている慣行を踏襲しなければ手に入れられない。彼の資格に非難の余地がなく、尊敬をかち得るだけの資質をもっていたとしても、容認されたドグマの狭い圏内で考え、行動する用意がなければ、多かれ少なかれ、孤立した道を歩く覚悟を引き受けなければならない。
ーーーーーーーーーーー以上引用終わりーーーーーーーーーーーーーーーーー
のように、医師になるには徹底して今の医学に右習え、つまり丸暗記することが必須条件とな� ��からです。そしてもしそれに異論があるとすると、たちまち医師試験に落ち、たとえ医師になってから異論を思ったとしても、それは医学の体制から離れてしまう異端者として冷や飯を食う立場に陥ることでしょう。
ある医学常識がもし間違っていたとしても長く永らえているのは、誰もあえてそれをしたがらないからでしょう。
もしくは丸暗記した医学そのものを鵜呑みにしてしまって、もうそれ以外の思考は出来ない「信仰者」となっているか、どちらか、両方かでしょう。
そこには医学を科学と崇めている信仰という意味です。
しかし、その信仰の根底となる基礎が動物実験であり、その動物実験が実はあやふやな科学であって、どうやら根本が誤っていたらしいというのですから、今後どういう様な進展にな� �か興味深いものがあります。
ーーーーーーーーー以下本文よりーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
近代医学の主張のすべては実質、ジュンナーとパスツールの理論(予防接種)に基づいている。彼らはほとんど神のように崇めたてまつられ、その意見に疑問を抱くことは神を冒漬するものとさえ考えられている。
(近代医学)の科学的基礎は見つかっていないのかもしれない。しかし、そこから得られる金銭的利益はいささかも損なわれてはいない。それをあえて危険にさらそうとする者は誰でも厄介なことに巻き込まれるか、さらにひどい日に遭うことになるかもしれない。ハドウェン博士がほのめかしている「編集長の後ろ高く控えている謎めいた権力」とは誰のことだろうか? < /p>
その答えは、少なくとも二冊の本の中に記されている。一つはモーリス・ビールの『The Drug Story(薬の話)』で、一九四〇年代に初めて出版され、その後三六回以上も版を重ねたが、アメリカの本屋で本書をあえて扱う者はいなかった。もう一つは、私の『世界医薬産業の犯罪(三交社。原題‥一九九三年刊)である。
社会学的側面から
社会学的見地から見ると、人間は群れをなす動物で、流行やファッションが示すように、たいへんな真似好きである。
人間は精神的に自由である、と一般的に考えられているが、実際には、そうした例はきわめて稀れである。
自立した思想をあえて求めたり、未踏の地に足を踏み入れることを避けたがる。
とりわけ、自分を形づくつたドグマを振り払い、自らを群れから知的に引き離すことを恐れている。人間は指導者、とくに父親のイメ� ��ジをもつ人物に従うことを安全だと考える。
その場合、その人物の性格を親しく知ろうとしたり、また、その人物がどこへ自分たちを導いて行こうとするのかを思い序わずらったりすることはない。
個人が行進中の群れに参加した瞬間、あらゆる思考プロセスはストップしてしまう。実際、従うべき指導者がなく、自らの頭で考えることを余儀なくされるよりは、見知らぬ人間でもそれについていく方が自由だと感じるのである。
立憲国家において我々の社食を規範づけている成文法は、国民の望む体制の不可欠の部分を成している。国民はそれらの法に充分満足しており、それはそれで正しい態度である。しかしいつでもそうだというわけではない。科学の分野におけると同様に、法の分野でも、法律がすたれたり、時� ��に逆行したりする。大多数の人々の欲求や社会的、科学的変化に対応しきれず、数十年、場合によっては数世紀も立ち遅れたりする。実際、法律は刻々と変化して、古くなったものは新しいものにとって代わられるが、これは多くの場合、大きな圧力がかかってはじめて起こることであり、時には暴力を伴い流血沙汰になる。今日および過去の社会不安が、時には革命や内乱にまでいたったことを思い出していただこう。
どのように心理学は存在に来たのですか?
明らかに、改革は、激烈な個人主義者、異端者、群れからの逃亡者、恐れを知らぬ、従ってつねに少数者グループの手によって始められた。
医学的根拠に基づいて生体解剖の廃止を提唱する人々の多くが本書に名が記されている。しかし彼らは依然として少数派である。これは何を意味しているのだろうか?
叡智というものは、頭数で決められるものではない。現在、全世界がその真実を認め、当たり前だと思っていることのほとんどは、また、多大な恩恵をもたらしたことが証明されている偉大な社会改革のほとんどは、当初、小さな、ばかにされた少数派、時にはたった一人によって提唱されたのである。
いわゆる文明諸国の� �律は、せいぜい法律の省略ということはあっても、医学研究ないしは科学″という口実があれば、ありとあらゆる動物への残虐行為を許可している。しかし、医学は自らも認めるように厳密科学ではない。
そして厳密ではないという(ことを認める)科学は、じつは科学などではなく、一種の自己矛盾に過ぎない。
従って、動物になされている残虐行為は、非科学的であるのみならず、違法である。
それにもかかわらず、多くの国々では、いわゆる健康管理機開によって制定された規則に、そうした非科学的で違法なテストが課せられているのだ。どうしてこういうことが可能なのか?
おそらく、これは、多くの人々が善良にも無視している事実、すなわち、そのよ� �な規則を課しているほかならぬ健康管理機閑そのものが業界に牛耳られており、後者は、動物に対してあてにならないテストを、それがあてにならないというまさにその理由で実施するように圧力をかけている、という事実に帰することができよう。
動物実験は、新しい大規模な薬害が発生するたびに、いつでも製薬業界に必要なアリバイを提供している。そのことに気づいている人はたいへん少ない。それには理由がある。多くの市民は、当局の規則はちょうど盗難や強盗を取り締まる法律のように、自分たちの利益にかなっている、と思っているからである
(中略)
現時点でも多くの人々は、生体解剖は物事の秩序維持のために不可欠だと見なしている。人間の強い群居本能が、他の多くの重要な障害と並んで、早急� �改革への道に、またもや立ちはだかっているのである。
ーーーーーーーーーーー以上引用終わりーーーーーーーーーーーーーーーーー
ここでの著者の序文を読めば、私がいらぬ解説など書かない方がよほど理解できるようです。では、何も書かないというのも別の意味で気が引けるので、著者に敬意を表して、別の言い方で同じようなことを書いてみます。
ジュンナーとパスツールの理論(予防接種)について神の言葉の様に後生大事に守ってきた医学ですが、私はこれをうち捨てない限り現代医学は宗教から脱却できないだろうと思っています。
それほど今の医学を支える基本となっているのが彼らの理論だと思うからです。
なかでも細菌の自然発生を否定したことがそもそも今の感染症の解明と治療にブレーキ� �かけているものと思います。そして、「予防接種」という、微生物に対抗する手段として、人体に異物(毒物=薬物)を入れる行為そのものが、将来に渡って仕掛けられてしまう、病気を引き起こす起爆装置として作用するということです。
しかし、今の医学が彼ら(ジェンナーとパスツール)の主張した理論を盲目的に認めてしまい、それに反する説を全面否定してしまう現状では今後においての伝染病対策はおろか、他の病気全般においても、病気が増えることはあっても減る事はないであろうと思います。
素人が何を解ったような事を!とお怒りを買うことでしょうが、あえて大衆の一員として玄人の皆様に提言して置きたいと思います。
そして、こんな異説が時と共に医学の方の側から興ってくるのではないかと楽� �みにかつ期待しているのです。
社会的側面からとして、著者の言われるような事はこの日本国でもずいぶん昔から行なわれてきたことです。
つまり「長いものには巻かれろ」式というか、「お上の言うことには従え」とかいうのでしょうが、その時代にある権威スジには頗る従順だと言うことです。
従順な日本人と言えばそれは素直であり、社会に反抗しないよい国民なのですが、もしも間違ったことを強いられてもそれに何ら抵抗もせず、従順に従うという性質のものですから少しも賢いものでもなく、どちらかというと愚鈍な民と言われるかも知れません。
このことは日本ばかりでなく世界でも同様なのでしょう。だからもし国家の権力を手中にした者がこれを応用すれば、国を治めるのはたやすいことです。どこか� �国の将軍様が歓迎され続けていられるのも、こういう愚鈍な民衆は「お上のいうことは正しい」といつも思っているからでしょうが、時にはその「お上」もとんでもない事を押しつける時があるのですから、まったく賢い選択が出来ないと「素直」とか「従順」とかは結局、自分の首をしめるか子孫の行く末まで不幸にすることもあるわけです。
ここで私が言いたいのは、あまり長く教育されてきた頭は思考しないということです。そしてほとんどその時々の「多数派意見」を絶対正しいと信じている民衆は、異端説を唱える者が現われるとそれを批判するばかりか、社会的に葬ろうとするところが怖いのです。
彼らは信者ですから、自分たちが信じさせられた教義に反するものは「迷信」とか「宗教」だと思いこみます。そして 「科学にあこがれる」あまり、科学と非科学の違いも理解出来ずに「非科学的だ」と言って「真実」(これこそ科学なのだが)を否定し、それを唱える者まで否定しようとします。
戦時中からの経験で少しは賢くなって来たのか、どぎつい事はなくなったので、村八分的制裁もしくは無視する(人間としても)行為などで終わるようでよい時代になったのでしょう。
しかしそんな人が多数居るからこそ、やりやすい環境なのです、彼らにとっては・・
薬害だの医療ミスだのと、いつも後になって騒ぐのなら、その前に少しくらいは賢くなって事前にもっと真実を探るとか研究することです。
だから大衆が賢くならないとこのままずっと同じ事を繰り返し続け、被害にあっても「ありがとうございました」などと言う方も居� ��ば、あわてて、こんなはずではなかった。もう少し早く教えてくれれば、などと訴えたり、保証を求めたりしている方たち。
そういう人こそこの本をよく読んで目を覚まして欲しいのです。
が・・・
ーーーーーーーーー以下本文よりーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
宗教的側面から
序 事
論理的なものよりは煽動的なものに傾きやすく、事実よりはフィクションに魅了され、目にはっきりと見えるものよりは隠れたものを信頼しがちなのが人間の本性であるにもかかわらず、多くの人々は、人間はすぐれて理性的な存在であると固く信じている。たとえドラマの登場人物の悪ふざけよりも、国会議員のおどけた仕種の方が市民生活にはもっと重要な影響を与えるとわかっていても、テレビの� ��文ドラマの方が、議会で進行中の出来事よりも、熱心な多くの視聴者を獲得する。
多くの人々は、マルクスやアインシュタインの業績よりも、子供時代に耳にしたおとぎ話の方を長く記憶にとどめるものだ。二人の思想が世界の社会的、政治的構造を根底的に変えたにもかかわらず、大部分の人が二人の本すら読んだことがないのだ。一九八八年、新聞はさも驚いたふりをして、世界最強の権力者が決断に際して星を頼りにしており、占星術者の押しつけは、大統領職の日常業務にも支障をきたし始めている″とロナルド・レーガン大統領の元補佐官の一人(ドン・リーガン)が暴露したと報じた。しかしながら、これには何ら驚くべきことはない。いつの時代も支配者や征服者は、アドルフ・ヒトラーから遠い昔のバビロニア人やアッシリア人にいたるまで、まさに同じ� ��うな魔術への依存によって心を悩ませてきたのである。
偉大な人々の中には、仏陀、モーセ、イエス、モハメッドといった預言者や偉大な宗教の創始者のように、この人間の特性を高貴な目的のために利用した人もいる。
しかし、多くの人間はそれを自らの個人的利益のために利用してきた。論理より魔術をあてにして、業界に恩義を着せられている健康管理機開によってひたすら商業路線に沿うよう組織された〈近代医学〉は、税をしぼり取る政府となれ合いながら、以前は(救舎になっていた役割を巧みに引き継いだのである。免許をもつ医師たちは、この新しい宗教の叙品司祭であり、遠慮がちな患者たちは何も疑わずに彼らの手に財布と盲目的信頼を委ねるよう要求されるのである。これは事実と虚構をたいへん巧みに 融合してかち得られてきたため、一般信者(患者)ばかりでなく聖職者(医療関係者)自身もしばしば事実と虚構を識別することができないほどである。
今日、大多数の人々は、公認の科学試験所で動物が受けている信じがたい拷問を、意識的に無視するか、おなじみの安心感をもって大目に見ている。しかし過去においては、ほとんどの人々が魔女を火あぶりにすることは人道主義的な処置であり、それに反対するのはただ無知な人間だけであると考えていた。なぜなら、それは人間を悪魔から守るのみならず、火によって魔女の心をも浄化するからである。
同じような気持で今日、最も残酷な動物実験が、人間にとってばかりでなく動物自身にも、(神の)恵みであると不用意に信じ込んでいる人々がいる。これは、生� �解剖が役に立つものだという信仰は、近代医学の卓越性に伴う必然的結果であると圧倒的多数の人々が宗教教義のように教え込まれてきたからであり、その手口は宗教が人々を改宗させるために用いるのと同じ手口なのである。証拠もないひとりよがりの主張を継続的、組織的に繰り返す。手始めは子供のときから。信じようとしない者にはおどしをかける。やがて、信仰は深く根付いた確信、言いかえれば冷静な思考を一切受けつけない盲信となる。ものを理性的に考えないということが、いかなる信仰にとっても必要な条件である。信仰がひとたび理性の助けなしに植え込まれたならば、それを理性的論拠によって消し去ることは至難のわざである。それは一種の迷信となったのである。
『ブリタニカ』百科事典は、(迷信)� �次のように定義している。「非理性的な感情、とりわけ恐怖が感情に基づく信念で、容易に信じられやすいという特徴をもつ。また、そうした信条に基づいて行なわれる儀式あるいは慣習。特に(宴以外の人々によって)合理的根拠に欠けると見なされる宗教的体系への信念。神秘的あるいは超自然的なものに関する容易な信じ込み、またはそうしたものに対する崇敬」。
この〈迷信〉の定義は、宗教そのものと同じく、〈近代医学〉はすぐれているという信仰にも同じように適用できる。〈近代医学〉という宗教を語ることは、〈近代医学〉という迷信を語ることでもある。そして、この医学が演じる様々な儀式は、白衣の司祭たちの財政的収益および権力と密接に結びついている。さらに言えば、これらの収益のライオンの分� �前にあずかるのは、実際の権力を構成する医薬産業の大物たちなのである(『世界医薬産業の犯罪』参照)。
ワクチン神話は、近代医学が巧みに人々に押しっけた最も広範囲にわたる迷信であるが、同じ理由で、最も利益をあげているのもこのワクチンである。このワクチン神話は、それを支える科学的論拠など何一つないにもかかわらず、最もしぶとく生き延びる神話の一つでありつづけるだろう。種々の伝染病はすべての国で、ワクチンやその他の療法が導入されたかどうかに関係なく、蔓延したかと思うと下火になり、やがて事実、消滅していった、といっても今や過言ではない。
その結果として唯高らかになったのは、種々のワクチンによって引き起こされた広範な薬害である。
イタリアやフランスで我々が知っ� �いる医師の多くは、医師業を続ける組合免許を保持したいと思ったら、子供の患者に予防接種をすることを拒絶するわけにはいかない。しかし彼らは、自分の子供にはワクチンを接種しない。西ドイツのゲ〜ハルト・ブッフヴアルト医学博士は、自分の子供∫イが天然痘の予防接種によって植物人間になってしまったことにショックを受け、世界親模の研究に着手した。その結果、天然痘で死亡した者はこの間一人もいないが、その代わり、予防接種により死亡した者は何百人もいることを証明し、西ドイツでの強制的接種を事実上廃止させた。
アメリカ合衆国では、合法的に予防接種を避ける方法″について親のためにガイドラインを発表した弁護士が何人かいる。また、予防接種で害を受けた患者を探し出して、そうした� �死性薬物を製造した製薬会社を訴えている者もいる。これはかなり効果をあげており、今日、製薬全社の多くは、政府がワクチン接種を義務化し、訴訟による被害を補償しないかぎりワクチン製造を拒否すると迫っている。しかし、各国政府の多くはそれを拒否している。
いわゆるワクチン接種は祝福すべきものだという鳴り物入りの信仰は、これからも(近代医学)の最後の死の儀式の一つとして留まり続けるだろうと予言してもよい。というのは、製薬全社にとってその収益はあまりに大きいからだ。恐らく接種廃止までには来世紀までかかるだろう。事実、それは(業界)にも(州)にもたいへんな儲けになるので、多くの場合、無料で奨励され押しつけられるのである。
しかし本当のところ、誰がそのツケ� ��払っているのだろうか? もちろん、納税者である。
(近代医学)が科学というよりは宗教であることを示すもっと適切な例が、次のエピソードである。
チューリッヒ州立病院である聡明な若い患者がアキレス腱を切り縫合してもらったが、数日間、薬を飲むように言われた。「腱を縫ってもらってなぜ薬を飲まないといけないんです? 体全体に悪い影響を与えるんじゃありませんか?」「いや、いや、その薬はあなたの腱だけに効くようになっているんだ!」、白衣の司祭はうれしそうにこう答えたものである。
スイスの先端を行く病院の医師が人に笑われることなくそんなことが言えるということは、(近代 ガ医学)がどれほど一つの宗教としてまかり通ることに成功しているかをよく示している。 宗教ならば、信者は何も疑わずに盲信を求められ、科学のように、議論、討論および証拠を求められることはない。
つづく
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